看護・高齢者ケアプログラム体験談・視察レポート
前回は留学の動機、ホームステイ生活、語学学校での出来事などを書きましたが、今回は看護講義参加して、この留学生活1年をどう過ごしたか、数々の思い出の日々について書こうと思います。
この日、現役正看護師による、看護英語レッスン(教室にて)最終日。同時期にスタートした13人いた仲間達、みなワーホリや、6か月プランなどそれぞれの形で留学し、最後には私達4人になりましたが、コース全部終了しての証書です。この日は、教えてくれたロゥイナが「日本食が食べたい」と言ったのでみんな肉じゃがやお好み焼きなどを作り、持参してパーティーでした。
週一回行われた現地看護師による看護講義はいつも楽しみでした。1年間の2/3は講義でしたが、残りの1/3は市内にあるいくつもの病院を見学しました。もちろん講義に参加していた私達はまだとても100%の英語は聞き取れないため、常に日本人の通訳の方が一緒に参加してくださっていました。(今は看護師として、通訳としてメルボルンで働いている日本人スタッフのKさん)通訳として、看護師としてだなんてかっこよすぎる・・・そんなKさんの存在はとても心強かったです。私の場合はいつもKさんを通して、現地の看護師さんが説明するオーストラリアの医療や現状などをメモしたり、質問したりしていました。もちろん自分で会話できればそれでOKなので(当時の私は問題外でしたが)私よりも断然英語力がある日本からの参加者は、自ら積極的に英語で話しかけてコミュニケーションをとっていました。
講義を受ける中で、看護師としてもしここで働くなら、英語の習得はもちろんですがまずはこの多国籍文化都市に慣れ、全てを受け入れていく包容力を持つべきだなぁ、世界の文化を知ることは本当に大事なんだなぁと感じました。例えばエホバ宗教を信念とする人達が「輸血」を絶対受け入れないことは有名です。ある病院で、今すぐ輸血をしないと子供の命が危ない、という状況があったそうです。本当に緊急で、両親に確認がとれないまま輸血は行われました。子供は救われましたが両親は「この子に輸血された」と知って、一切わが子を引き取りに来なかったそうです。悲しそうにその看護師の方は話してくれました。インドでは、母親は出産後、全く子供の世話をしないのが常識だそうです。自分の母親・親戚・女姉妹が一斉に赤ちゃんの世話をするそうで、母としてする事は授乳だけ。それ以外は、号泣している赤ちゃんに振り向きもせず、抱きもせずにのんびりとテレビを見て、食べて休んで好きなことをして過ごすそうです。怠けているように見えても絶対、出産後の母親に注意してはいけないそうです。今の日本でもオーストラリアでも、出産後は母子同室をいかにしてもっと導入していけるかがテーマなのに、せっかくおなかを痛めて産んだ、可愛いわが子と少しでも長く一緒に過ごせることが最も大切とされているのに・・・。
また中国のある地域では、ターミナルケアにおいて、その人が亡くなると予想される24時間前から親戚一同が集まり、病室でその患者さんをとり囲んで、亡くなられるまでお経を読みあげるそうです。日本では縁起が悪すぎる、なんとも驚くべき話です。日本人である私達はそれらを聞いて、よく異和感を感じました。でもそれは日本の常識に当てはまらないからそう感じるのであって、これらは全て、今も現に行われている世界の常識で、ある時の講師の看護師さんが言っていましたが「いろいろな国の文化を知る必要があり、時々そのケアはとても難しいのです。私達でさえまだ知らない事がたくさんあり、まずはその患者さんがどこの国の出身かを把握し、その国の文化に合わせた看護を行うことが最も大切です。」と。メルボルンの病院で患者カルテの一番最初に記載されるのはまず名前です。その次の欄には日本だったら年齢や職業・住所ですが、ここでは「国籍」「Nationality」でした。日本には基本的に日本人しか住んでいませんから日本全国どこへ行ってもカルテにそんな欄はありませんが、これらのお話、事実は私にとって本当にビックリ・少し面白い話でした。
看護教育クラス第5週目、CPR救急救命講座にて。みんなで蘇生法を練習して、オーストラリアの資格を取得しました。
ある急性期の病院を訪ねて、高濃度酸素治療室の見学。ある友達が実験台になって装置をかぶっているところです。もちろん、この時実際には酸素は流れていませんが・・・。
カリタス・ホスピスを訪問して。左の人は、現在もこのホスピスで働いている日本人スタッフの方で、オーストラリアにおけるホスピス事情を講義してくださいました。
私はここに来て、たくさんの日本の生徒(看護留学に参加した人、ワーホリで楽しく英語を学びに来た人など様々でした)と出会いました。どんな理由であれ、英語を学びに来たのは同じ。海外でこうして出会う日本の友達は、一生ものになると思って間違いないと思います。同じ目標のもと、悔しくて泣いたり、一緒に喜んだり、そしてよき友となり、当時の皆のほとんどは留学を終えて帰国しましたが、今ももちろん交流しています。私は最初、「私はここに遊びに来たのではない。出来るだけ日本語はしゃべりたくない。日本人と友達になっても仕方ないとまでは言わないけれど、私は英語を学びに来たのだから」と強く思っていました。けれど、本当に英語に集中する時と、日本語もしゃべって楽しく過ごす時とを使い分ければいいのだと感じました。英語の先生が、英語で話す説明がやっぱりどうしても分からない時がありました。そんな時は、よく日本人の友達に助けを求めました。友達に(通訳?)解明してもらったり、文法などお互いにチェックし合ったり、一緒に図書館に通ったりして時間を共にしました。かけがえのない友達になりました。みんな悩みは似ていました。もちろん目的を同じとした、英語を学ぶ同士だったからです。よく励まし合いました。私のストレス発散方法は、ここで出来た友達とよく遊び、飲み、旅行し、そしてよく寝ることでした。そうすることで1年間、挫折することなく留学を続けられたのだと思います。時々、私よりもとても英語が出来るのに、途中でやめて帰国する子も見ました。諦めちゃうの・・・私なんて本当に不純な動機で参加しただけなのに、目標があったんじゃないのか・・・彼らを見送る時は本当に悲しく、涙が出ました。
メルボルンに来たばかりの頃、クラブで楽しんだのはいいのですが終電を見送り、英語でしゃべりかけるのが怖くてタクシーさえ捕まえることが出来ず、彼女と一緒に10キロも歩いて帰りました。ヒールが痛くて途中から二人とも裸足で、彼女はかかとから血が出ていました。この事件以来、親友になりました。日記に書いたら「危なすぎる!メルボルンは日本のように安全ではないのよ、気をつけて」と先生達に注意され、心配かけました。やんちゃしました。
メルボルンで出会った看護師の友達のみんな。私以外、みんな留学の最後にはOETのテストを受けて帰国していきました。私はとてもまだテストを受けられる力がなかったので、この日は、私が友達のために「OETテストお疲れ様パーティー」を企画しました。テスト1ヵ月前くらいから、とにかく集中し、猛勉強していたみんな、本当にがんばっていました。
気分転換に、私はよく一人で街を散歩しました。メルボルンのコーヒーは本当に美味しいです。街にはオシャレなカフェもたくさんあります。西洋文化が漂う街の建造物も本当に見事です。この日はメルボルンで有名な 日曜マーケットに行って楽しみました。面白い格好のお姉さんがいたので、一緒に撮ってもらいました。
毎日机に向かって勉強ばかりしていると、時々つらくなる時があります。勉強をしてもしても、まだ文法が理解できない、英語が聞き取れない、分からない・・・あせりや悔しみ、時々一人で泣きました。でも、そんな中でも、リラックスを取り入れながら自分を信じてとにかく続けてきたことで、今の私があるのだと思います。英語の先生はよく「日記・エッセイを書け、新しい単語を毎日5つは覚えろ、新聞・雑誌・本をもっと読め、テレビを見ろ、ラジオを聞け、地元人と話せ、地元の友達を作れ、もっと交流を・・・」簡単に言いますが一日は24時間と限られています。全部こなすなんて初めから不可能です。だから、全部は無理でも自分の興味のあること1つ2つを生活に取り入れるだけでも十分な練習が出来るはずだと信じました。実際、私は一日1時間程度かかる宿題だけは必ずやって、あとは好きな日記をほぼ毎日書いて提出しただけでした。先生がチェックしてくれる日記を読み返すだけでも勉強になりました。1年間、必死に辞書をくりながら書いた日記帳は5冊以上にもなり、今も大切なノートです。書くことで新しい単語も自動的に少しずつ頭に入っていたような気がします。強いて言うと、学校の行き帰りに駅で無料の新聞(うすっぺらの新聞がある)を拾って、いつも興味のある部分を10分間つまみ読みしていただけ? 寝る前に30分ほど英語のラジオを聴くだけ? の繰り返しでした。(聞きながら寝てしまうことも多く、電池の消耗は本当に早かった(笑)・・・)自分で工夫すれば、いろんな方法で少しの時間も無駄にしない英語習得方法を見出せます。自分の英語が成長していることを感じられる瞬間は絶対あります。みなさんも、無理せずコツコツと、そして大いに自分なりのリラックス方法を見つけて、留学にトライしていってください。
教室で、英語の先生と。この日記帳は3冊目。ほどんど毎日、日記を先生にチェックしてもらっていました。同じことを言うにしても、日本人が使う表現と、現地の人が使う表現がやはり違って、たくさんの新しい言い回し、ネイティブならこう言う、というのをこの日記を通して多く学んだと思います。