看護・高齢者ケアプログラム体験談・視察レポート
最初に訪問したのは、高齢者介護ユニットでした。四階建ての建物全体が高齢者住宅となっており、そのうちの1フロア分、利用者8名のユニットを担当しました。
午前勤務(7:00-15:00)では僕以外に3名、午後勤務(13:00-21:00)では僕以外に2名のスタッフが働いており、彼ら以外にも常駐の看護師と医者が建物内に待機しています。実際の職務内容は、当日の個人ごとの薬の確認、起床補助、トイレの補助、朝食準備、洗濯、食器洗い、掃除等でした。
■ 高齢者介護ユニット ■
Hornskrokens 外観
■ 高齢者介護ユニット Hornskrokens 内観 ■
施設で働く中で考えざるを得なかった点のうち、以下の3点はとりわけ印象的です。
第一に、対人コミュニケーションの困難について。日常、我々は言語のみならず、表情や体の動きなどの本人から発される情報に加え、当人の置かれた社会的文脈についての認識から、相手を解釈しています。とりわけ、日本人同士が日本語を用いてコミュニケーションを取る際と比べ、今回僕がスウェーデン語でスウェーデン人とコミュニケーションを取る際には、言語的障壁・社会的文脈の非共有とがより切実な障壁として立ち現れてきました。
言語的障壁については、想像に難くないと思います。端的に言えば、こちらの言っていることが伝わらない、向こうの言っていることが分からない、という言語での情報伝達の不全です。社会的文脈の非共有とは、利用者個人がどのような人生を送って来たのかについて想像しがたいことから、そもそもその社会で何が良しとされているのか分からないことまで、非常に広範な前提を欠如を指しています。
例えば、ある女性の利用者が結婚歴があるのか、そして結婚歴のあるなし、離婚の話題等はどのような捉えられ方をしているのか、判断がつかないという状況です。本来、日本語話者と日本語でコミュニケーションを取る際にも同質の問題は胚胎しているのですが、各問題につき異言語・異文化という状況下で困難がより強調される形で経験されたと言えます。
第二に、個人の生活と管理とのあつれきについて。介護施設は、歴史的には病院の延長であり、実際の様子は学校と似通っています。というのも、その制度・空間内では、何らかの目的の下(病気の治癒や教育)で、何らかの基準が良いものとして個人に突き付けられ、有形無形の方法で個人はその基準へと収斂させられていくという特徴がみられるからです。そして、そうした基準は施設・制度の側から見た「良さ」であり、往々にして個人の求める基準と相克します。
今後もケアの分野で働いていきたいと考えている身として、職業者として仕事を効率的に、より広範な利用者に質の高いサービスを提供する必要と、それから要請される画一性の重要性を意識したうえで、管理・教育において見過ごされがちな各人の存在が圧し拉がれがちという状況にも、そのジレンマに苦しむことを覚悟のうえで、向き合わなければならないと感じる一場面でした。
第三に、スウェーデン介護事業における移民労働力の役割の大きさについて。実際、同僚8名のうちスウェーデン生まれは2名しかおらず、その他はスペインやナイジェリアなど諸外国からの移民でした。
日本でも現在移民労働力による介護現場の代替化が盛んに議論されていますが、スウェーデンにおける外国人への姿勢——概して、日本人におけるよりも感情的反発は小さいと感じます——、更にはスウェーデン語という言語そのものも簡素さ——戦後、“意図的に”文法構造や用法の簡素化・合理化が行われています——という特殊性を実感しました。
次に訪問したのは、Famntagetというホームケア施設でした。
主な業務内容は、炊事・洗濯、一日分の薬の管理と服用の確認、犬の散歩や固定電話契約の確認と多岐にわたります。
前述の施設の入居者に比べ、ホームケアの利用者は認知症の症状が軽く、中には快活な会話をしてくださる方も在り、異なる刺激を得ることが出来ました。
ホームケアの現場で働き、人生の最期を自宅で静かに過ごす人々と触れる中で去来するのは、自分の最期は自宅で迎えたい、更には本人が望むなら、僕の家族も最期を自宅で過ごさせてあげたいという思いでした。現代において、あらゆる病苦が医学の射程に入り、ほとんどすべての人にとって結果的に最後は病院での時間となります。多くの人が僕と同様に自宅で最期を迎えたいと思っているにもかかわらず、結果、病院に搬送され、そこで最期を迎えている現状には、人間の死に際して僕らが予期していない多大な困難があることの証左だと思います。それは、目の前で親族が苦しみ死んでいく姿に堪えられない弱さであり、ごくわずかな回復の望みがあればそれにすがりたくなる健気な希望であり、家から視認を出したくないという素朴な観方であり。一家族人としても、一職業人としても、大きな人間的課題を得た心持です。
■ ホームケア施設 Famntaget の様子 ■